歴史4「西南戦争〜屯田兵制度の廃止」
運命の逆転と武士社会の崩壊
■西南戦争勃発明治10年、征韓論に破れ帰郷していた西郷隆盛が、九州で反乱を起こします。これには日本中が驚愕しました。この時期、佐賀の乱(明治7年)、前原一誠の反乱(明治9年)など、不平士族による蜂起が相次いで起こっていましたが、明治維新の最大の推進者である西郷隆盛だけは蜂起すまいと、誰もが考えていたからです。
西郷は当時の旧士族達にとって、巨大なカリスマでした。これをきっかけに旧薩摩藩士はもちろん、全国各地の不平士族が共同謀議に出るか、あるいは単独で蜂起することすら予想されたのです。
現実に屯田兵の幹部、永山盛弘は父親の病気を理由に郷里鹿児島に戻り、西郷軍に参加します。屯田兵の幹部には薩摩出身の者が多く、彼等の間にはとまどいと擬心暗鬼の空気が漂ってきました。
現役陸軍大将である西郷の反乱はまた、単に武力による蜂起という他に大変な問題を含んでいました。つまり、反乱は「現政府の否定」を含んだ「政府内の分裂」であり、ひいては屯田兵制度そのものの意味も問われるものだったからです。■琴似屯田兵、九州へ
反乱を知った開拓使は、まず銃砲弾薬の売買輸送を厳禁し、屯田兵一個小隊を函館港へ派遣、北海道に戦火が飛び火しないように警備を固めます。
西南戦争錦絵
ついで4月9日、遂に開拓長官黒田清隆から屯田兵に対して出征命令が下されます。薩摩出身の屯田幹部は、やりきれない複雑な心境でしたが、屯田兵達の多くは、そんな幹部の心情とはうらはらでした。彼等は東北戦争において薩摩兵と激戦を交え、ついには「賊軍」の汚名を着せられたという忘れられない恨みを持っているのです。
特に斗南出身の屯田兵は、琴似に来てからも自らを「斗南」出身ではなく「会津」出身だと名乗っていました。彼等の怨恨は、明治政府が行った戦後処理にもありました。たとえば先だって福島県が創設された時も会津若松市ではなく、ことさら福島市に県庁が置かれるなど、薩長は徹底的に「会津」を差別してきたのです。
4月15日、琴似兵村第一中隊と山鼻兵村二中隊(琴似入地の翌年に入地していた)による屯田第一大隊は、小樽港から戦乱の九州へ向かいました。■凱旋と論功行賞
船は9日間をかけて、23日、肥後国百貫石の港に到着。それから120日もの間、屯田兵は九州各地で転戦しました。
はじめ政府軍の間には「屯田兵は、西郷軍に寝返るのではないか」という疑念があり、屯田部隊には狙撃兵が配属されていましたが、消極的な幹部達とは反対に、屯田兵の活躍はめざましいものでした。特に一瀬川での激戦は、他の官軍の将校が観戦していて以下のように講評したといいます。
「屯田兵の負傷者は、下士が多いのは理解できたが、将校の負傷者がいないので不審に思っていた。今日の戦闘を観戦して、ようやくその不審が判った。戦闘しているのは下士、兵卒で、将校ではなかった。」(「琴似町史」)
琴似神社の社宝「日々雑誌記」
また屯田兵の服装の特徴である「霜降り赤線」のズボンは、屯田部隊の果敢な活躍によって、一般兵から尊敬の目でみられたという話も伝えられています(ちなみに西南戦争における屯田兵の記録については、琴似屯田兵安細良治氏の従軍日誌「日々雑誌記」があり、現在では、琴似神社の門外不出の社宝となっている)。
さて、西南戦争は政府軍の勝利に終わり、8月16日、帰郷の命を受け都ノ城を出発した屯田兵は、神戸、東京と休暇をとりながら、9月30日、札幌へ凱旋します。ところがこの戦争の論功行賞(手柄の大小により、相応の賞を与えること)は、薩摩出身の将校が高い行賞を受け、それ以外のものには低い行賞がおこなわれるといった、明らかに不平等なものでした。屯田兵の活躍はどうあれ、時代は、藩閥の中にあったのです。
「琴似町史」には以下の記録が残されています。
「これに不満を抱き、千早中尉は不平のあまり切腹をするという悲劇があり、安田中尉もまた即日職をなげうって東京へ去った。」(「琴似町史」)■屯田兵制度の廃止
西南戦争は、屯田兵の戦死者(琴似屯田兵7名)も出しましたが、明治政府はいちはやく、彼等の靖國神社(当時の名称は「東京招魂社」)への合祀を決めました。屯田兵は「官軍」として遇されたのです(西郷隆盛、旧会津藩士などは「賊軍」として、現在も合祀されていない)。
第一中隊本部
西南戦争以降、旧士族による反乱はなくなります。屯田兵は、いわば最後の武士の息の根を止めることで「賊軍」の汚名を晴らしたことになったのです。運命の皮肉を感じたかもしれません。
さて、琴似屯田兵が現役としての役目を終えるのが明治24年3月。16年間にも及ぶ兵役でした。このあと予備役が28年6月までの4年、それを終えると後備役に編入され、徴兵令の施行に伴い、明治37年屯田兵制度廃止を迎えます。琴似兵村は琴似村になりました。屯田兵制度のスタートからゴールまでを経験したのは琴似兵村ただひとつでした。
琴似に初めて屯田兵が入地した明治8年から50年後、大正13(1924)年の調査によると、琴似の旧屯田兵在村者は30戸とされています。実に87.5%の人々が琴似を去っていったのでした。転出した人々の大半は在留者と音信がとだえてしまったといいます。
その年、琴似入植50年を記念して記念塔が立てられました。琴似神社の境内に立つこの記念塔には、琴似屯田兵240名すべての名前が刻まれています。